私にとっての祈り
本来の自分へ還っていくことで変わってきたことの一つに「祈り」があります。私にとっての祈りは、お願い事ではなく「つながり」を感じるものへと変わっていきました。
本来の自分とは、とても自然な状態。自然との一体感、つながりの中にいるような感覚に近づいていきます。すると、「祈り」という言葉に対して、これまでとは違う感覚が生まれていきました。それは、単なる願い事や、感謝というものとは違うのです。
子供の頃、お腹が弱かった私は、頻繁に腹痛に見舞われていました。そんなとき、私の何が悪かったのでしょう。良い子でいますから何とかこの痛みを鎮めてくださいと願いました。それは祈りだったのだろうと思います。もちろん子供の私に仏様や神様など特定の信仰対象などありません。それでもつらい痛みに耐え続けていると、何かしらに助けを求めずにはいられませんでした。
母親が入院してしまったときも、良い子でいますから、早く帰って来られますようにと何かしらに頼んでいました。テストの結果についても、同じように何かしらに対して、うまくいきますようにとお願いしていました。何かしらに頼めば何とかしてもらえるのではないか。それも祈りだったと思います。
自分の選択に対し、どんな結果が出るか、自分の選択に自信がありませんでした。だからこそ何かにお願いします。なぜ思うようにならないのだろうと悩んでいた私は、祈りが足りなかったのか、良い結果を得られなかったのは自分の行いが悪いからなのだろうか、と自分を責めるときもありました。そうして自信をなくしていきました。
力を貸してほしい。私一人では乗り越えることが困難に思えるとき、助けてほしいと願いました。私にとって祈りとは、「目には見えない何かしらの働きが起きて欲しい」という願望だったように思います。
特に子育て中は、子供が病気をした時には早く良くなってほしい、試合に出場すれば勝てるようになど数多くの祈りがありました。
人生の意味を問い、何者かになりたいと望んだ頃があり、様々な出会いや体験を通じ、本来の自分を取り戻していったとき、祈りとは、一方的にお願いごとをするものでも、願いを叶えてもらおうとするものでもないと思えるようになっていきました。
本来の自分へ戻っていくことで自分というものが自然の一部に感じられるようになっていったとき、それまで何に対して何を届けようとしているのかわからなかった祈りというものが、ずっと身近なものに感じられるようになったのです。
「あなたのために祈りましょう」という言葉と出会ったときも、その言葉を自然に受け止めることが出来ました。私たちに対して祈りが届いていると素直に感じられました。
何かしら願いたいことがあって祈ってきました。しかしそうではなく、私が祈らなくても、私に対して祈りは届けられていると感じたのです。
祈りとは作用なのではないかと思いました。私たちの日々には、到底説明できない出来事が数多く起こります。人との出会い、偶然のように思える出来事、励ましの言葉との出会い。私には、それらが何か大きな「作用」のように思えるようになりました。人々が親しい誰かを思うように、私たちもまた何かしらに見守られ、祈ってもらえている。祈りあっているのだと気づきました。「私たちは皆、運がよいのです」その言葉が、腑に落ちました。私は小さなしあわせに気づけなくなっていただけでした。
祈りとは、社会の中に閉じこもってしまった自分、自然から切り離されてしまった自分を、元の状態へと「戻す」行為なのだと思います。自然のリズムへと自分を戻すことで、失われていた安らぎや、落ち着きが静かに戻ってきます。生きているとは、どういうことなのか。今もこうして生かされているのは、なぜなのか。祈りは、日々の忙しさの中で忘れてしまっている「当たり前」に気づく時間になりました。
本来の自分に還ることは、あらゆるものとの「つながり」を取り戻していきます。それは、自然の一部へと還ることでもあると思います。人が時に森へ出かけ、より清らかな空気を求めるように。無意識に自然の中へ身を置こうとするのと同じように、祈りが自然なものへなっていきました。私たちは、自然とのつながりの中を生きていると実感します。今ここにある恵みのありがたさを感じ、喜びが生まれる。それ自体が、尊い祈りなのだと思います。
本来の自分へ還るほどに、祈りは特別なものではなくなっていきました。ただ、自然につながりを感じること。今の私にとって祈りとは、そのようなものです。