考え続けた先で、気づいたこと

自分がわからない、生きづらさを感じる。何のために生きているのかわからない。そうした自分自身や人生に対しての悩み苦しさ、そうしたものの根本には、何があるのだろう。根本的に解決する方法はあるのだろうかと必死に考えてきました。

そうした考え方自体を変えればいい。別の視点を持てばいいのではないかなど考えるほどに迷宮に入り込んで行くようでした。考え方を変えることはできるのか、考え方を変えたなら解決するのだろうか。考え込んでいくほど、それだけで解決するとは思えなくなっていきました。

本質的な解決のためには、必死に考えることが邪魔をするのではないか。考えること自体から解放されたところに解決への道は見つかるのではないか。

私は常に思考してきました。それが人間らしいと思ってきました。しかし、考え過ぎてしまうことで迷い、悩み苦しみへと自分からはいていってしまったのではないかと思えてきた出来事の一つを紹介したいと思います。

それはある日の夢の話です

それはある日の夢の話です。そこには膝を抱えながら、うずくまる一人の姿が見えました。その人には遥か遠くから、一筋の美しい光が射しています。

しかし、暗闇の中でうずくまっているその人は光に気づいていません。周りを見渡しますと、多くの人がいて、誰のところにも光は射していました。その光に気付き、その光を受け取っている人がいます。光を受け入れた人の足元は少しずつ明るくなり、その人は安心したように歩き始めました。私はその光が、これから進む人生を照らすものなのだと思いました。

夢の中で膝を抱えうずくまっていたのは私なのではないだろうか。

顔を上げてみる

必死に考え、自分の世界に閉じ籠り周りが何も見えない。何も考えていない時も、ボーっと過ごしている時も私は私です。必死に考えている時にはわからなかったことにふと気づくのはそんなときではないか。

また、どんなに考えても私の考えた通りに事は運びません。それでも数々の困難を乗り越えてこられました。私の力ではなく、誰かの助言であったり、何かしらの働きによって、大事に至らずに済んだこともあります。それは注がれてくる光だったのでしょう。

自分に起きたことだから、自分で何とかしなければならない。考えて、考えて解決しなければならないと思ってしまいましたが、冷静に振り返ったとき、本当に自分の考えだけで乗り越えてきたのだろうか。

物事は私を中心に動いているわけではありません。普段ならそうわかっています。しかし、何かしらつらいことが起きたとき、つい自分を中心に考えてしまいました。そして考えることでどんどんわからなくなり混乱していく。それが生きづらさや、逃げ出したい思いへどんどん膨らんでいってしまったのです。

自分にできることはします。しかし、その結果は、なるようにしかならない。自分の思い通りにはなりません。しかし、その出来事によって経験し学んでいます。その時の出来事から私は何かを得ていたのだと思います。すべては必要なことであり、必要な結果だったのだと思います。その時は、大きな問題に思えることも、やがて巡り巡って自分のためになっていく。無意味なことなど起きてはいない。そう思えるようになれたとき、苦しさから随分解放されることが出来ました。

うずくまって考え込むのではなく、顔を上げ、私にも射し込んでいるはずの光を見よう。顔を上げてみると、今まで見えなかったものが少しずつ見え始めました。それは世界が変わったのではありません。自ら苦しみを作り出す必要などないと、解き放たれたからだと思います。