スピリチュアルとは

本来の自分に還っていくことで変わってきたことの一つに「スピリチュアル」があります。私にとってのスピリチュアルは怪しいものから、ありがたいものへ変わっていきました。

昔の私はスピリチュアルという言葉が苦手でした。目に見えないものが見える、霊と話ができるなど、一部の人の持つ特殊な能力のことで、どこか怪しくて信用できないものだと思っていたのです。関わってはいけないものだと避けてきたように思います。しかし、終末期医療(ホスピス)の存在を知り、スピリチュアルペインという言葉に出会ったことで、私のスピリチュアルに対してのイメージは随分変わりました。何のために生まれ何のために生きるのか、人は死後どうなるのかといった誰でも感じてしまう痛みがスピリチュアルペイン(人間の根源的な痛み)と言われるなら、ペイン(痛み)を取り除いたスピリチュアルという言葉は、人間の根源と言うことなのではないか。また、世界保健機関(WHO)憲章の健康の定義(健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、Physical(肉体的)に、Mental(精神的)に、Social(社会的)にも全てが満たされた状態であること)に近年スピリチュアルを加える動きがあることを知り、スピリチュアルは特殊な能力や、一部の人だけが持つものではなく、すべての人に関わりのある言葉なのだと知りました。

健康の定義に加えられようとしたのは、人間の尊厳の確保や生活の質を考えるために必要で本質的なものと考えられたからだそうです。では、スピリチュアルに満たされるとはどういう状態をいうのだろう。私にも無関係ではないはずですが、その当時の私には理解することはできませんでした。

スピリチュアルは人間の根源。そう考えたとき、それは何なのかとても興味を引かれました。それを知ることが出来たなら、何のために生まれ生きるのか、死とは何か、人生の意味、目的さえも知ることが出来るのではないかと思えたのです。

私は、「人間の根源」とは何なのかを知りたくなりました。その答えを求める中で、古代の日本人は何を大切にしてきたのかにも興味を持つようになりました。縄文時代から行われていた儀礼や祭祀、お墓の設置や先祖崇拝。そうした中に人間の根源を紐解くヒントが隠されているのではないか。

そんなことを考えている頃、奈良県明日香村のキトラ古墳壁画体験館、四神の館を訪ねる機会がありました。現存する最古の天文図が描かれているキトラ古墳。日本の都が、奈良県明日香村にあったころのお墓です。被葬者は特定されていませんが、当時の権力者に間違いないようです。

棺が収められている玄室は方形をしていて、東西南北の壁には青龍、白虎、朱雀、玄武と呼ばれる四神像が、十二支像とともに描かれ、玄室の天井には、北極星を中心とした350以上の星たちと、太陽、月などの天文図が描かれていました。四神像や十二支像が描かれたのは死者を守るためでしょうか。亡き人を神様の世界へ連れて行ってもらうためでしょうか。多くの星と太陽と月。これらが表すものとは何なのだろうと考えさせられました。

亡くなった人を、その星、太陽、月の中心に置き、宇宙の中心になれるようにと願ったのかもしれません。宇宙の一部になれるようにと願ったのかもしれません。その世界は実在する目に見える世界を超えた、当時の人々の世界観だったのだと思います。亡き人を大切に埋葬し、周囲に壁画を施した理由は、人は死によって、すべてが終わるのではなく、死後の世界があると信じていたのではないかと思います。死。それは終わりではなく、死後、神々や宇宙の中に包まれていくような感覚を、人々は持っていたのかもしれません。

太古の日本は、採集や農耕を行い、自然とともに暮らしていたといわれます。当然、自然に対しての畏敬は強かったでしょう。自然の力を認め、自然の恵みが得られるよう祈願する。自然に神様や、霊力のようなものを感じる。自然崇拝(アニミズム)もされていたようです。

私たちが神様と呼ぶもの、感じるものは、様々です。神話に登場する神々を崇め、様々な神様を祀っています。山が御神体、岩が御神体のように自然を神様と崇めますし、天照大神、伊邪那岐命、伊邪那美命などの神々も祀っています。まさに八百万(やおよろず)の神です。

人々は偉大な力や不思議な力を神様の働きとしてきました。エネルギーを感じる場所には、神様が降り立ったと感じ、不思議な裂け目や大きな岩なども神聖な物と崇めています。実際に神様の姿を見たという人がいたのかもしれません。

太古の昔、現在のように電気も情報もない時代。自然と共に生きたからこそ体験できたことは多かったでしょう。太陽、土、水、自然の恵みは、現代より有り難く感じていたでしょう。その恵みを与えてくれる自然にも、その自然を生み出してくれる大きな存在にも、人々は感謝と敬意を抱き、そこに神の存在を感じて敬う、それは、人間の自然に身についている感覚ではないだろうか。敬うと言うより、心からの祈りだったのではないでしょうか。現代も受け継がれている神社、仏閣や、祈りの場。祭りや神事。人は今も、事あるごとに祈ります。自然に感謝し、敬い大切にしています。目に見えないものを敬い、大切にする。自然や宇宙とのつながりを感じ、大切にする。そうした感覚は、私たちにも受け継がれていると思います。

その後、私自身も様々な体験をし、本来の自分へ還る試みを続けていく中で気づいたことがあります。自分の身に起こる様々な出来事には意味があり、そのどれもが有り難いものだったということです。私一人で生きているのではありません。自然の力に支えられ、人との出会いに支えられ、多くの出来事から学び、生かされてきました。そのことを心から実感できるようになったとき、「スピリチュアル」とは、特別な能力ではなく、この「つながり」そのものなのではないかと思えるようになったのです。本来の自分へ還るほどに、スピリチュアルとは「つながり」を生きることだと思えるようになりました。