「誰かから言われた一言が悔しくて、夜眠れない」
「仕事のミスが頭を覆って離れない……」
忘れようとするほど意識が向いてしまい、
頭が一杯になって身体も心も限界を迎えてしまう。
そんな経験はありませんか?
この記事では、真面目な人ほど陥りやすい
「思考の沼」の正体を紐解きます。
次に何かが起きたときでも心がパニックにならないために、
仏教の知恵を交えた根本的な「心の捉え方」を紹介します。
なぜ「考えても仕方がない」のに考えすぎてしまうのか?
「もう忘れよう」
そう思っても頭から離れず、気づけば夜中になり、
そのまま朝を迎えてしまうこともあります。
考えすぎてしまう人は、
自分でも「考えても仕方がない」とわかっています。
それでも考えてしまうのは、ただ悩みたいからではありません。
少しでも状況を良くしたい。
同じ失敗を繰り返したくない。
どうすれば解決できるのか知りたい。
そう思うからこそ、頭の中で考え続けてしまうのです。
過ぎてしまったことを考えるのは無意味だと
言われることもあります。
しかし、実際にはそうとも言い切れません。
仕事上のミスであれば、
「なぜ起きたのか」
「どうすれば信頼を回復できるのか」
「明日どのように対応すれば良いのか」
を考えるのは大切なことです。
人とのトラブルであれば、
「どうすれば関係を修復できるのか」
「何を伝えれば良いのか」を考えることによって
見えてくるものもあります。
だからこそ、私たちは必死に考えるのです。
仏教の教えに学ぶ「一の矢は受けても、二の矢は受けない」
しかし、実際には一晩悩んだことが取り越し苦労だった
ということも少なくありません。
自分では大問題だと思っていても
相手はそれほど気にしていなかったり、
嫌われたと思ったけれどそうではなかったりすることもあります。
それでも考え続けてしまうのは、
「もっと準備しておかなければ」
「まだ考えが足りないかもしれない」
という思いがあるからでしょう。
真面目な人ほど、できる限りの準備をしておこうとして、
結果的に自分自身を苦しめてしまいます。
以前、ある僧侶から教えていただいた言葉があります。
「一の矢は受けても、二の矢は受けない」
人生には避けられない出来事
(失敗、傷つくこと、思い通りにならないこと)があります。
これが「一の矢」です。
しかし私たちは、その出来事に対して
「なぜこんなことになったのだろう」
「私はダメな人間だ」
「取り返しがつかない」
と考え続けることがあります。これが「二の矢」です。
さらに、
「もし相手が怒っていたら」
「もし最悪の結果になったら」
と未来の不安まで想像し始めると、三の矢、四の矢となって、
自分自身を傷つけ続けてしまうのです。
思考の沼から抜け出すための「事実」と「解釈」の分け方
考えすぎてしまう人に対して、
「気にしなければいい」
「考えなければいい」
と言う人がいます。しかし、
それができれば苦労はありません。
考え続けるのは、自分を守ろうとしているからです。
考え続けてしまっている時、
思考を無理に止めようとするのは難しいもの。
まず大切なのは、
「ああ、今私は思考(二の矢)の中に入り込んでいるな」
と客観的に気づくことです。
私たちは出来事そのものに苦しんでいるようでいて、
実際にはその出来事に自分なりの意味づけ(解釈)をしています。
起きた事実は一つでも、そこに
「嫌われたに違いない」
「失敗した私は価値がない」
という解釈を加えてしまうからこそ、
苦しみがどんどん大きくなっていくのです。
だからこそ、
「何が事実なのか」
「何が自分の解釈なのか」
を分けて見ることが大切なのだと思います。
余分な思考を「引く」ことで心は少しずつ軽くなる
人生には想定外のことが起こります。
避けたくても避けられない出来事には、
何かしらの意味があるのかもしれません。
無理にその意味を探す必要はありませんが、
「意味がある」と思えるだけで、
目の前の出来事との向き合い方は変わります。
これからも様々な出来事が起きるでしょう。
しかし、そのたびに二の矢、三の矢を受け続ける必要はありません。
思考に飲み込まれるのではなく、思考している自分に気づくこと。
「すべての出来事には意味があるのだから」と、
自分を悲劇の主人公にすることなく、
俯瞰して見る準備をしておくこと。
これ以上、頭の中に「余分な思考を足すこと」をやめていく。
その引き算の積み重ねによって、
少しずつ心は軽くなっていくのだと思います。
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