【理想の自分 ギャップ 苦しい】理想を演じるのをやめて楽に生きる道

SNSの普及もあり、現代は同級生や職場の仲間といった身近な人だけでなく、「もっと多くの人から自分がどのように見られているか」がどうしても気になってしまう時代だと思います。

現代の生きづらさ|「人の目が気になる疲れた心」と自己演出のプレッシャー

現代の私たちは、ただ見られているだけでなく、自分を「どう見せるか」という自己演出まで求められているのではないでしょうか。SNSのプロフィールや投稿も、ある意味では自己演出です。どう見せるか、そしてどう見られているか、その両方を常に意識し続けなければならない環境に、私たちは生きています。

私が若い頃はSNSなどありませんでしたが、それでも周囲の目は常に気になっていました。
子どもの頃なら親の顔色をうかがい、学校へ行くようになれば同級生や先生からどのように見られているかが気になり、それと同時に「自分を周囲にどう見せるか」をいつも意識していました。

仲間外れにはなりたくない。仲の良い友達もほしい。そのためにどうすれば周囲に受け入れてもらえるか、気に入られるかを必死に考えました。

その後、教員という職業に就いたときは、学生の頃とは比べものにならないほど「周囲からどう見られているか」が気になりました。どういう自分で生きるべきか、周囲に求められる
「あるべき自分」を作り上げていく。その作業を、当時の私は「自己探求」だと思っていました。

しかし今から振り返れば、それは本当の自己探求ではなかったのだと思います。 私が見ていたのは「自分自身」ではなく、「周囲からどう見られているか」という他人の視線ばかりでした。自分がどのように生きたいかではなく、どのように生きれば他人に認められるのか。

誰に認められたいのかも曖昧なまま、「認められるための自分」を必死に探し続けていたのです。それはまるで、最初から答えのない問いに一生懸命取り組んでいるようなものでした。

理想を追う代償|教員時代に味わった他者評価と終わりのない不安の正体

他人が自分に何を望んでいるのか、本当のところは誰にも分かりません。それでも当時の私は、「きっとこういうことを望まれているに違いない」そう決めつけて、自分の想像を満たすために努力していました。

教員になったとき、私は理想の教員像を持ちました。尊敬する先輩の姿を重ねながら、

「このようになれたなら認めてもらえる」
そう信じて努力しました。

ある程度は認められたと思います。しかしその先にあったのは、

・この先も認められ続けるのか
・さらに信頼される存在になれるのか

というどこまで行っても満たされることのない、終わりのない不安と焦燥感だけでした。

負のループの盲点|「理想の自分とのギャップが苦しい」と感じる理由

理想を追い、自分を良く見せ続けることに、次第に疲れていきました。

私は、本当の私を生きているのか。それとも、無理をして偽りの生きているのか。

努力が足りないのか、それとも理想そのものが違っていたのか。何が正しいのか、わからなくなっていきました。

理想通りになれない自分。理想を追うことに疲れてしまう自分。

そのどちらも、「それではいけないもっと頑張れるはずだ」と感じてしまう。妥協してはいけない。妥協は堕落ではないか。そうした考えがある限り、何をしていても自分がわからなくなっていきます。

自分とは何か。どれだけ考えても答えは出ませんでした。それどころか、自分が何者でもないように感じ、「このままの自分ではいけない」という焦りだけが残りました。

私は、何者かになれるはずだと思っていたのです。何者かになりたいとも思っていました。
けれど、その「何者か」が何なのかはわからない。

ただ、それになれたならきっと自分に納得できるはずだと信じていました。

視点の引き算|探していたのは自分ではなく外側に作り上げた条件だった

あるのは、今の自分への不満です。「こんなはずではなかった」そう思いながらも、ではどんなはずだったのかはわからない。

足りないところに目を向けると、次々と足りないものが見えてきます。そのたびに自分を責める。まさに負の連鎖でした。自分とは何かと問い続けても、答えは出ません。

なぜなら、自分はすでに“ここにある”からです。

私が探していたのは、自分ではありませんでした。「理想」だったのです。

どのような自分なら満足できるのか。それを探し続けていたのです。満足の基準もわからないまま、「今とは違う生き方があるはずだ」と思い込む。何か違う。どこか違う。そう思うほど、今ここにいる自分を否定していきます。その否定こそが、生き辛さを強くしていたのかもしれません。

心の喜びを取り戻す|苦しみの先ではなく「今ここ」の小さな幸せを味わう

私は自分を否定し、誰かから認められるはずの「何者か」という魅力を手に入れたいと願いました。

何かしらの肩書こそが私のはずなのです。しかし、肩書さえあれば本当に認められる存在になれるのでしょうか。

あるとき、ある方に、「本当に楽しそうに生きていたら、どうしてそんなに楽しそうに暮らしているのですかと尋ねてきますよ」と言われたことがあります。

そのとき、私はその言葉の意味がわかりませんでした。努力し求めて何がいけないのかと疑問さえ持ちました。

しかし、その教えの通り何をしているにしても心の底から楽しめていなければ魅力的な生き方とはなりません。中身が伴うには私の心からの喜びが大切です。

「私は私が求めていた人生を、今、楽しめているだろうか」

当時の私は、常に「何かが足りない」と不足を探し、必死になりながら、いつも難しい顔をして過ごしていたに違いありません。

「そんな生活をしていて、あなたは本当に楽しいですか? それが本当にあなたの生きたい姿なのですか?」と尋ねられたようなものでした。

幸せな人生を見つけるためには、今はつらくても仕方がない。何かを手に入れるなら、その分だけ苦しまなければならない――。どこかでそんな風に思い込んでいたのかもしれません。しかし、苦しみの先にあるのは、笑って過ごせる日々ではありませんでした。さらに求め続ける、終わりのない日々が続くだけだったのです。

日々の暮らしの中に、楽しさは本当にないのでしょうか。 私自身の物事の見方が少しずつ変化していくと、日々の当たり前の暮らしの中に、たくさんの「ありがたいこと」がすであるという事実に気づくようになりました。

ありがたさを感じることは、小さな幸せを見つけることです。それを感じられたとき、心からホッと安らぐことができました。張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けていくのを感じるのです。

まだまだ他人の目を一切気にせずに、自分の人生を100%楽しめているとは言い切れないかもしれません。それでも、外側の理想を追いかけるのをやめ、今ここにある日々楽しさを味わいながらいられるようにはなってきた、と実感しています。

何者をも演じなくていい。稲沢市HANEで等身大の自分へ還ろう

他人の目を気にして「理想の自分」を演じ続ける生き方は、いつか必ず息切れしてしまいます。

外側の何かを足して自分を良く見せる必要はありません。今ここに生きているそのままで、すでに十分に価値があります。

HANEのセッションは、あなたに新しい「理想の姿」を付け足す場所ではありません。あなたが周囲の目を気にして身につけてしまった「こうあるべき」という重い鎧(理想)を、
対話を通じて一つずつ丁寧に引き算していく時間です。もし今、かつての私のように「他人の目が気になって疲れてしまった」「理想の自分になれなくて苦しい」と一人でモヤモヤを抱えているなら、

その張り詰めた心の力を一度、ここに緩めにきませんか? 周囲の視線から解放され、今ここにある自分を味わうための仕組みや、HANEの具体的な対話セッションの詳細は以下のリンクから詳しくご覧いただけます。

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【自分探し 疲れた】人生の迷路を抜け出し本来の自分に還る総まとめ

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